引っ越し前のママ友とランチした。
久々に会った彼女はちょっと痩せていて、疲れているようだった。
あんなにキラキラしていたのに、子どもの人生が躓いた時、母親というものはこんなにもメンタルが表に出てしまうものなのだな、と彼女を見て思う。
東京駅から30分圏内で義実家になるべく近い都内にあるパスタランチの美味しいと評判の店、まずはスパークリングで乾杯。贅沢な時間。
彼女から北海道の老舗洋菓子店の手土産を貰い、私からも近所で有名な和菓子専門店のかりんとうセットを。
確か、息子君が好きだったお菓子の一つだ。
パスタとドルチェを選べるコースを選ぶ。前菜の盛り合わせプレートに、思わず感嘆の声。
フォークとナイフでゆっくりと自分では作れそうもない小さなおかず達を口に運ぶ。
メレンゲを固くしたようなものや、小さなカクテル皿に乗せられた美しい色合いのジュレに頬も緩む。
メインのパスタも、九条ネギやどこどこ産の海老やウニ、トマトクリームソースパスタやオイル系、種類も多く悩みに悩んで決めた。
ランチ3000円でこのクオリティは安くすら感じる。
「これ、なんだろうね?」
「美味しい、どうやって作るんだろう。」
「ちょっとトリュフ感じない?」
「こっちのパスタ、美味しいよ。一口いる?」
ママ友が、躊躇なく自分のお皿から一口分のパスタを未使用のフォークを使いくるくる巻き取り、取り分け皿に乗せて差し出す。
「うわぁ、美味しい。私のも食べてみて。」
私も同様に、彼女に自分のパスタを取り分ける。
美味しいを共有すること、心も体も満たされる時間。
こうやって、対面であれこれ思うことを伝え合いながら食事をする友達がいるという幸福。
年に一度会えるかどうかであっても、やっぱりこういう他愛の無い親しい人との会話は人生を豊かにしてくれる。
スパークリングを飲み終え、2杯目は互いに好きなグラスワインを頼むことにした。
ママ友は赤、私はパスタが貝類を使ったオイル系のものだったので、キリリと冷えた白。
それぞれグラスに口をつける。
ふいに、
「花ちゃんはどう?学校行けてる?」
そんな問いに、なぜか本当のことが言えなかった。
「うん、相変わらずだよ。行けたり行けなかったり。だから受験も総合型はキツイかも。」
彼女の息子は優秀だ。だが、高校入学と共に登校拒否になり、塾ですら通いは無理でオンライン。
健康な身体を陽に当てない生活は、精神を徐々にすり減らしていく。
何を考えているのか分からない、表情も乏しくなり、家庭での会話もほぼないと聞いた。
腹を痛めて生んだ息子であってもまるで他人を見ているような、大事に掴んでいた風船が飛んで行ってしまったような喪失感を抱える彼女に、何と声を掛けたら良いのか。
対し、私の子はクラス替えにより、友達と一緒になれたことで毎日元気に登校するようになった。
去年は修学旅行を欠席する程にクラスが最低だったことも、まるで夢だったかのよう。
しかし、ママ友には順調な子の様子を率直に伝えることなど出来なかった。
「そっか。お互い大変だよね。」
どこか安心したような、共通の悩みを持つ親同士にしか生まれない連帯感。それが崩れたらママ友との繋がりも消えてしまうような気がして、必死に取り繕う。
だがそれは、彼女にとって良いことだったのか、今になって分からなくなった。
彼女を元気付けたい、そんな思いから自分のネガティブな生活を披露する。
パート先でうまくいかないこと、義実家の愚痴、夫や自営のゴタゴタ等。
その話を聞いて、心配しつつも和らいでいく表情に、人って人の不幸で安心する生き物なのだと実感する。ママ友のことは好きだけれど、自分が落ちている時は同じ位―それ以上に落ちている人間といることで心が安定するという姿を目の当たりにしたら、私の中にある友達の基準が音を立ててガラガラと崩れて行く。
なんだか虚しい。
それは、咄嗟に嘘を付いた自分に対しても生じた感情だった。
そこまで深いことを考えず、ただ楽しい時間を共有出来るだけでいいのだと割り切れば、楽な友達関係は継続出来る。
それ以上を求める私が深刻過ぎるのかもしれない。
友達の基準
