不幸の消費

車いす わたし
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「お涙頂戴だな。リモコン貸して。」

 ソファーに寝そべる夫にリモコンを渡すと、すぐに他のチャンネルに変えた。
夫は、昔から24時間テレビが嫌いだ。
そして私も、ここ近年、この手の番組が苦手。
24時間テレビを観てネガティブな感情を抱くのは、きっと私だけじゃないはず。
涙まみれのアナウンサーは、番組が終われば、翌日からはすっかり切り替え、日々めまぐるしく飛び込んで来る新たなニュースの波にのまれていく。
ワイプで涙している芸能人達も、来週にはバラエティ番組で腹を抱えて大笑いしているんだろう。
感動し、同情し、心から涙を流していたはずの視聴者達は、そうやって皆、それぞれの生活に戻って行く。
それが現実だ。

可哀想という感情。
だがその一方で、今の自分に満足する。
これでいいんだ、まだましだと。


 可哀想という感情で消費される人達は、でもきっとそれを知りながらもテレビ画面の中で笑顔を見せる。
彼らはいったい、何を伝えようとしているんだろう。
涙を誘うコンテンツに自らを投げ打ってまで、彼らは知って欲しいのか。
経済格差による子どもの貧困、ハンディを持つ人、不治の病で闘病する人、震災での復興の壁に立ち向かう人々ーそういった彼らに向けられる無理解、無関心を減らしたい一心で、テレビという強力なメディアをもって伝えている。

 私達は、彼らの苦労や努力、それを乗り越えようと頑張る姿を知り、自分には何が出来るか考え、手を差し伸べられたらと思う。そしてその思いは大抵、テレビ視聴中に限ってなのだ。思いはいとも簡単に、日常によって途切れる。
悲しいけれど、だから世の中はなかなか変わらない。


 私達は傲慢だ。
彼らとの間にある一線をポンといつでも越えられるだろうと過信している。
自分の生活の範疇にそれが訪れた時、その心構えが出来ていればいい、そんな感覚。
訪れるかもしれないし、一生それは訪れないかもしれない。
だから、その線はどこまでも線であり続ける。陽の当たらない、底の見えない溝みたいに。

私もそう。
感動し、消費している人々と同じく批判するだけ。
一歩、その線を踏み出すことが出来ない。
そんな自分に気付くから、この番組に嫌悪感を抱くのだろう。
優先席には座らないとか、そんなちっぽけなことで罪悪感は拭えない。




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