子が、卒業式前にアルバムを持ち帰った。 個人ページの子の顔は、家で見る顔と違って凛としており、娘なのにどこか他人を見ているような不思議な感じ。
クラスページの中の子は、どの写真も楽しそうな笑顔を浮かべており、孤立することなく気の合う仲間と共にいたのだなと知り、学生生活、それなりに満喫していたのだなと安心した。
パラパラとページを繰ると、スネ夫ママの息子やSちゃん、幼稚園時代から知る子ども達が私の記憶の中の彼らから一気に成長していて驚く。こんなにも大人になったのだなと、大嫌いなママ友の子どもであってもなんだか感慨深い気持ちにさせられるのだ。
友達何人出来たかな?指標となる最後のページ
ドキドキしながら捲る最後のページには、たくさんの友達からのメッセージが書かれていた。
部活の友達からは、テニス部での楽しかったことや辛かったこと。クラスの友達からも別れるのが惜しいというようなメッセージが、カラフルなペンでページ一杯に書かれていた。
しかも、女子からだけではなく男子からも。私に似ず、我が子は人徳があるのだなと思うと嬉しくなった。
私ではなく、夫の遺伝子を半分は引き継いでいる。それは眩しいくらいに私には無い部分で、ほんの少しだけ切なかった。
我が子なのに、なんだか遠い存在に思えてしまう自分がいたからだ。
だからといって、まるっと私の駄目な部分を引き継いでいたら、それはそれで苦しい思いをするのは目に見えているのだけれど。
私の卒業アルバム
子に対し、私の学生時代のアルバムの最後のページは、ほぼ真っ白。
中学も高校も、修学旅行があるような大事な学年に限ってクラス運が付いてなく、友達らしい友達が出来なかったからだ。部活も入っていなかったし、なんとか一人にならないように作った友達は卒業式に来なかった。
式の後、教室でわいわいするクラスメートを後目に、とぼとぼ一人で学校を後にしたあの日が今も尚鮮明に蘇る。ただ、やっとこの窮屈な世界から解放されると思うと、足取りは案外軽かった。
卒業式に来なかった友達とは、その後、音信不通。彼女がどうして休んだのかも分からないし、それを聞けるだけの親密さすらなかったのだ。
我が子の交友関係が私に似ず、友達に恵まれた3年間だったと知り、本当に嬉しかった。