躊躇なく声を掛けられる才能

ショッピングモール わたし
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 駅前のショッピングモールでふらふらしていたら、突然、肩を叩かれた。
思わずビクっとして振り返ると、懐かしい人。
敬語ママだ。

敬語ママとは幼稚園で知り合った。
スネ夫ママやボスママとは違い、誰に対しても分け隔てなく接する人間的に出来た人。
私のようなぼっちママに対しても、変わらず相手してくれた良い人だ。
彼女が所属しているボランティア活動に誘ってくれたり、ランチに誘ってくれたり・・
こんな私にも、根気良く声を掛け続けてくれた優しい人。

その人間性が買われてか、中学校でもPTA本部をしていたりでどんどん私とは縁遠くなってしまったけれど、私のママ生活の中で、唯一尊敬出来る特別な人である。
その彼女が、数年ぶりに見掛けた私にわざわざ声を掛けてくれたのである。




善意の塊

「そうかなーと思ってたらやっぱりそうだった。お久しぶりです!」


 懐かしい、人を包み込むような穏やかな声色に涙が出そうになる。
中学校ではコロナ禍ということもあり、彼女と会う機会も話す機会も殆どなかった。
また、中途半端に辞めてしまったボランティア。
彼女が引っ越してしまうこともあり、フェイドアウトした件では後ろめたさもあった。
またこうしてここに戻るという確証があったのなら、頑張って続けられたかもしれない。
それ程、彼女の存在は大きかったのだ。
子が中学を卒業し、更に疎遠になった彼女。
だから、こうして声を掛けてくれることなんてもう二度とないだろうと思っていた。
それなのにー
何事もなかったかのように、彼女は笑顔だ。


「体調はどうですか?」


 彼女の言葉に、そうだったと思い出す。
私は体調不良ということであのボランティアを辞めたのだと。
そして、あれから少しも変わっていない自分にげんなりした。
何かといえば「体調不良」という最も安全で自分も誰も傷付かない便利な言葉に頼ってしまう。
自治会役員だってそうだった。
そして、大概の善人はその言葉を素直に受け取り、そして心配までしてくれる。
針金さんもそうだ。
そして、その気遣う瞳の奥にある善意は、私の真っ黒な心をチクリと刺すのだ。




真のコミュ力

 少しでも関わりのあった人に、数年ぶりにばったり会ったとする。
私は、彼女のように躊躇なく声を掛けられるだろうか?
答えは、NOだ。
それが私に良くしてくれた人であってもだ。
勿論、深い付き合いともなればー引っ越し前のママ友くらいの仲ー声を掛けるだろうけれど。

 遥か昔、幼稚園時代に親切にしてくれたYさん。
引っ越してしまった彼女宛てに手紙を出す程に信頼を置いていたのに。
今では音信不通。
そして、もしも彼女とこの街でばったり会ったとしても、私はきっと声を掛けないだろう。
私にとっては大きな存在の彼女だけれど、彼女からしたら私は数多くの友達や知人のうちの一人。
もしかしたら記憶にすらないかもしれない。
そんな恐ろしいくらいにネガティブな感情が、躊躇という足枷になり私の行動をストップさせてしまう。

孤高の人もそうだ。
とても良い人だったけれど、こちらから見掛けて声を掛けることはない。
先日もレジに並ぶ前方に見掛け、列を変えた。
彼女はたった一人で並んでいたし、私に気付けば挨拶くらいしてくれそうだ。
なのにー、こちらから声を掛けるにはハードルが高い。
いちいち反応を気にしてしまう。迷惑がられるかもーとか。

そして、Mさんも。
彼女にいたっては、人間的にリスペクトはしていないけれど。
唯一、私と娯楽を共にしようとしてくれた奇特な人。
そして私も彼女の為に、大泉洋のドラマや映画を観たり、また水どうというDVDを観たりと勉強も
したけれど。
ランチだってしたけれど。
今、もしどこかで会っても気付かない振りをしてスルーするだろう。
実際、彼女らしき人を駅で見掛けたけれど、走り寄って声を掛けることはなかった。

 真のコミュ力を持ち合わせている人とは、人を前に躊躇しない人。
相手がどう思うかあれこれ考え過ぎない人。
だからといって、自分を押し付けるのではなく、気遣う心を持ち合わせている人。



社交的な人は内向的な人とも付き合える 

 本当に社交的な人は、人を見た目で判断しないし自分の中の物差しを信じる人だと思う。
誰彼の噂話や悪い噂、第一印象ー、誰からどう思われるかなんて気にしない。
ぶれない軸のある人。

 Yさんや孤高の人、それに敬語ママ。
ママ友がいない私に優しくしてくれた人達の共通点は、他者からの評価を気にしない人。
付き合う人間の種類で自分の価値上げをするような他力本願ではない人。
だから、どんなタイプの人間とも打ち解けられるし、また信頼を寄せられるのだと思う。




社交的な人の唯一無二になれないジレンマ

 ふと思う。
私がもっともっと頑張れば、彼女らとの距離はより縮まったかもしれない。
もしかしたら、家の行き来が出来るくらいには。
それでもそうならなかったのは、そのチャンスを自ら棒に振ったから。
それは、一種のどうしようもない切なさが生じることに我慢ならないから。
私は、彼女らの唯一無二の存在になれない。
敬語ママが私にとって唯一の友達になれたとして、一方通行なのが目に見える。
そして、深い付き合いが始まれば、私は執着してしまう。
結果、苦しくなる。
要するに、重いのだ。
自分でも嫌になるくらいに重い。
その重さを自ら分かっているから、一歩踏み込めない。
ランチに誘い、たまたま都合が付かず相手から軽い感じで断られても、嫌われているのだと思い込み二度とこちらから誘えない。
拒絶されるのが怖いのだ。

 しかし、引っ越し前のママ友は、距離的に離れたから今も付き合えている。
でも、もしあの地で今も付き合っていたのなら、付かず離れずでフェイドアウトしていたかもしれない。
それくらいに私は面倒臭く見返りを求め、自分の熱量を相手にも求めてしまう図々しい内向型の人間なのだ。


 少しの雑談。近況報告。そして彼女がちらっと腕時計を見たのに気付く。
こういうところだ。私が必要以上に気にしてしまうこういうところがうまくいかない原因。

「あ、時間大丈夫ですか?」

「あ。すみません、ちょっとこの後に約束があって。」


 そう言いながら、モール内の店の方に視線を送る彼女。
誰かとランチの予定なのだ。
なんだか申し訳ない気持ちになり、こちらから切り上げるタイミングを取った。

「じゃあ、私もこれから買い物にいかないと。」

「えぇ、また。会えて良かったです。」

 軽く会釈をし、その場を離れる。
切なさを引き摺りながら、振り返ることもなく。
あぁ、私はまたチャンスを逃した。

嬉しかった再会が、あっという間に喪失感に変わる。
あても無く、いつものスーパーをとぼとぼ歩いた。







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