入社後ギャップ

IDカード 仕事
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 初出勤を終え、既に不安しかない。
そんな風に思う自分がヘタレ過ぎて情けない。
私が想像する以上に、この職場でやっていくには、スピードと気力、基礎知識(私にとっては応用レベル)、そして根性が要るだろう。
やっていけるのか?
前日までのウキウキした気分は一転ー、食欲もなく眠りも浅い。


初出勤の朝

 夫も、私が働く職場を早速ネットで検索し、まさかの言葉。

「あなた、すごいじゃん。結構なところに採用されたね。」

 反対の意を示していたのが嘘かのように、初日の朝は頑張れという言葉まで貰った。
吉田さんに対しての劣等感も、少しだけ薄れた。
子からも、

「ママ、なんか働く女って感じだね。」

 パリッとしたパンツに綺麗めブラウス。中途半端に伸びて来た髪は一つにまとめてシルバーのヘアクリップで留め、入学卒業式や冠婚葬祭でしか履かないストッキング。
独身時代から使っている、ノーブランドだが品のあるベージュの細革ベルトのスクエア時計。
それらを身に纏う母親に、子どもながら新鮮味をおぼえたようだった。

 朝の通勤ラッシュ。
初日は、9:00~15:00までの出勤だったのだけれど、朝については普通に働く人々と同じ時間帯の電車に乗ることになる。
9:00~始業というのは固定のようで、その日の仕事の塩梅で早く上がれたり遅くなったりということらしい。会社の方も、初めてバイトを雇うことで、まだ要領がつかめていないようだ。

 電車の中は、皆スマホ。
朝からゲームをしているサラリーマンもいる。
私もついついスマホを開き、いつものルーティンでお気に入りのブログを回る。
そして彼らの「今日も変わらない日常」に支えられるのだ。
自分の毎日が変わっていく、期待と不安がない交ぜになった感情を落ち着かせる為に。


憧れのIDカード

 今日からここが、私の職場。
守衛もおり、一瞬、持ち物検査をされるかもーとバッグの中身を思い出す。
大丈夫、変なものは入れていない。
お洒落なオフィスビルに足を踏み入れ、IDカードを通す。
IDカード、なんて素敵な響きなのだろう。これぞ、オフィスワークの免許証といった感じだ。
まだ仮のカードだが、入社後、写真入りの正式なカードを貰えるという。
なんだかテレビドラマの主人公のようで、ドキドキする。
エレベーターに乗り込み、職場となる階数ボタンを押そうとしたら、前にいた若い女性に先を越された。
同じ職場の人だ。
しかし、静まり返ったエレベーターの中で挨拶もしようがない。
各駅のように、各階数で止まっては開く扉。徐々に人も降り、薄かった空気が若干楽になる。
ようやく到着し、扉が開く。
女性とともに降りる。
何か―挨拶・・

「すみません!」

 え?っといった感じに振り返る女性に頭を下げた。

「今日からお世話になります、芝生と申します!」

「・・・あぁ、どうも。」

 若干、困ったような顔で笑みを浮かべた女性は、なんという名前だったか忘れてしまったが軽く挨拶をしてくれた。それに、私を案内してもくれた。

「ここでまたカードを通して下さい。」

 ここでもまたカードを通すのだ。
入館証兼、タイムカードの役割も果たすのかもしれない。
そして、女性は人事課のような場所に連れて行ってくれた。

「それでは。」

「ありがとうございます。」


 この職場は親切だ。
女性は私より二回りも年下のように見えたけれど、よほど私よりしっかりした社会人といった感じだった。


自己紹介と朝礼

 人事担当に連れられ、私がこれから働く部署に連れて行かれた。
そして、そこの部署のリーダーに軽く紹介された。

「では、業務外のことで何かあったら人事に連絡下さい。」

 要するに、私はこのリーダー率いる部署で働くことになったのだ。
リーダーというのは課長や部長ということなのだろうか。
聞き慣れない言葉に戸惑う。
男性は、色黒で細身の筋肉質。私より若く恐らく30代。
そして、無表情で寡黙な感じ。
部署内は、3つの列にデスクが連なっており、私はその真ん中にある列の手前の端っこに案内された。
その隣に座る女性に、

「今日から入社の芝生さん。色々、教えてやって。」

「はい。よろしくお願いします。小川です。」

 まだ20代後半くらいの綺麗で小柄な女性。彼女から色々指示を貰うのだろうか?
しかし、彼女はすぐに自分のPCに顔を向けると難しい顔で作業を始めた。
WEB系の会社なので、よく分からないけれど、真っ黒な画面に英語やら記号がずらずらと並んでおり、これがプログラミングというやつなのだろうか。

 チャイムが鳴り、一斉に社員が席を立った。
先程のリーダーの元、朝礼が始まる。
そして、社員の一人が呼ばれて今日のスピーチとやらを始める。
ホワイトボードには、各々の名前の書かれたマグネットが貼り付けられており、「直行」「直帰」の文字の下に名前がある人も。
デスクがまばらだったのは、どこか社外に直行している人がいたからだろう。
そして、そのホワイトボードの一番下に、私の名前の書かれたマグネットが貼り付けてあった。
それを目にした途端、嬉しさよりも緊張感、そして場違いなところに来てしまったかもという不安感が襲って来た。

スピーチが終わり、私の名前をリーダーが呼び手招きする。
そろそろと皆の視線が集まる中、前に出る。心臓が飛び出そう。子の学校懇談会なんて目じゃない。
あれの何百倍もの緊張感ーとんでもないところに来てしまった。


「今日からここで色々とサポート業務して貰うことになった芝生さん。では、自己紹介お願いします。」


 あんなに何回も自宅で練習した自己紹介だが、男性女性問わず、そしていかにもすごい能力を持ったような人達の前にさらされての挨拶は膝がガクガク震える程に緊張した。

バイトーだよね?これってまるで、社員のような扱い?

人によっては喜ぶところなのかもしれないけれど、私にとってはただただプレッシャーでしかない。
頭は真っ白になり、だいぶ端折っての自己紹介に終わってしまった。

膨大なデータ入力

 「この通りに、Excelに文字を打っていって下さい。」

 小川さんに指示され、ほっとする。
どうやら単純作業のようだ。私にはよく分からないけれど、何かのデータを作成するのに必要な業務らしい。
しかし、不規則なデータ。いったい何を意味するのか分からないそれをただ打ち込む。


 「ちょっと、この島、これからミーティングなので。電話があったら対応お願いしますね。」


 ぞろぞろと私の列にいた人達ー島の人達は、ミーティングルームと呼ばれる部屋へ行ってしまった。
ポツンと列に残されたのは私だけ。
両サイドの列ーこれも島と呼ぶのか、彼らは別のグループなのか。チームは同じでもグループが更に3つあることが何となく分かる。
黙々と作業をしている。
そして、ミーティング中に電話が鳴らないことを祈りながら作業をしていた。
しかし、そんな私の願いなど届くはずもなく、電話は鳴る。
そして、短い期間でも夫の仕事を手伝っていて良かった。いくらか電話の免疫は付いていた。
職場特有のビジネスフォンの使い方も。
ここでは、さすがに保留ボタンの押し方だとか外線の掛け方なんて教えて貰えそうもない。
吉田さんから教わっていた知識が役に立つ。
内線電話の仕組みなんて必要ないのについでにーと教えてくれた彼女に今は感謝したい。

掛かって来る電話の大半は、夫の自営の手伝いの時とは違い内線ばかり。
オウム返しのように、

「ただいまミーティング中でして。」

と答えると、だいたいはまた後で掛け直すと切ってくれたが、折り返し欲しいとぶっきら棒な感じの人も。
必死で名前を聞き取り、メモを取り、しかし誰宛の電話だったのか聞き逃すという失態。
ようやく島の人達がミーティング室から出て来たので、大量のメモを小川さんに見せる。
まだ周囲の名前も良く覚えていないのだ。一応、私のデスクマットの下には席表のようなものがあって、ただその中になかった名前もあったりしたのだ。

 小川さんは、私からメモを受け取るとテキパキとそれぞれに配り、そして最後に聞き逃した件を伝える。

「この方からなんですが。誰宛のお電話か聞き逃してしまいまして。」

「え?誰からですか?ちょっとこの方の名前もよく分からないんですけど。」


 どうやら、誰宛かだけでなく誰からかも聞き間違えているようだった。最悪だ。


「どんな特徴でした?」

「男性で、比較的お年を召していて、『何時に終わりそう?じゃあ終わったら電話くれって伝えておいて。』と仰っていました。」


 内容だけは覚えていたが、何の情報にも繋がらなかった。
大失態だ。

「仕方がないですね。また電話が掛かって来ると思うので、待ちましょう。」


 生きた心地がしない。そんな精神状態でしていた入力業務もミスの連発。
私が作ったデータのチェックを小川さんがサラっとしてくれたのだが、根本的にやり方を間違えていた。
簡単に言えば、縦列で入力しなくてはならないのに横列でしていたーというような。
全部、やり直し。

「最初ですからね、大丈夫ですよ。」

 小川さんはそう言って笑ってくれたけれど、周囲の男性や女性社員はどう思っただろう。
使えないおばさんだと思っただろう。
そもそも皆、自分の仕事を黙々としているので、私のことなど眼中にないかもしれないけれど。


昼休憩

 昼のチャイムが鳴るが、あまり席を立たない。
皆、仕事をしている。
小川さんのところに、2人の若い女性社員が他の島からやって来た。

「電話、来なかったですね。あ、もうお昼なんでやり直しは午後からにしましょう。」

 にっこり微笑むと、同期なのか彼女らと楽しそうにランチへと出て行った。
取り残された私は、すっかり食欲を失う。
ただ、このまま自分のデスクにいるのも気が滅入る。
前方や斜め前にいる男性とは目も合わない。皆、何かデスクで食べながら仕事をしているようだ。
外の空気が吸いたくなって、いったん社外に出ることにした。

 外は、夏日。
あんなにも憧れていたオフィスワーク。
憧れと現実の間で揺れる思い。
私に務まるのか、初日でこんなミスをした。
今頃、小川さんはランチをしながら同僚達に「使えないおばさん」について愚痴っているかもしれない。
ついついネガティブな感情に支配されそうになる。
そして、疎外感。
皆がミーティングルームに入った後に取り残された、何とも言えない空気。

あまりにも暑く、外で食べるのはきつかったのでマックに入った。
持って来たパンは、家で食べよう。
マックで一番安いバーガーとドリンクを頼み、口にするが味がない。
まったく味がない。
機械的に体の中に入れる作業は、ほんの数分で終わる。
そしてしばらくはスマホを眺めてぼーっと過ごす。でも、頭に内容は入って行かない。
午後、あの電話の男性が怒り心頭に再び掛けてきたらーとか、その先の業務も何をやらされるのか不安しかない。


帰り辛い空気

 昼休憩を終え、デスクに戻る。
小川さんはまだいなかったが、前方と斜め前の男性は伏せていた。恐らく、寝ているのだろう。
こんなところで仮眠なんてーもしかしたら毎晩、残業続きなのか?
小川さんのデスクをチラ見する。
綺麗に片付けられているけれど、ところどころに女の子らしい文具やPCアクセサリーが置かれており、仕事は出来るけれど年頃の女の子なんだなと微笑ましく思えた。
下手したら、私は彼女の母親世代かもしれないからだ。

 チャイムが鳴り、午後の業務。
今度は間違えないよう細心の注意を払って入力した。ギリギリ終わるかどうかーといったところ。
15時になり、まだ終わらない。焦ってしまい、またミスをしてしまう。
しかし、誰も私が15時退社ということに気付いていない。これは、自ら退社時刻を伝えた方がいいのか?
誰に?小川さん?リーダー?それとも人事?
頭の中に、業務とは別のクエスチョンが浮かぶがあたふたするばかり。
時計の針は進む一方。
この時間は時給に入るの?余裕が無い割に邪な考えまでも浮かぶ。
作業を終えたタイミングで、小川さんに退社時刻を伝えることにした。

「終わりました。あの、退社時間なんですけど。」

「え?あ、そうなんですね!じゃあ、ここに今日の日報書いてください。」

 社内システムと呼ばれるツール内に、日報のアイコンがある。
それに、各社員も日報をつけているようでバイトの私もしなくてはならないらしい。
開くと、時系列に書かなくてはならない。頭が混乱する。今日一日、何してたっけ?
散々迷った挙句、

ー入力業務(小川さん指示のもと)ー

ー電話対応ー

 と入力した。
これで良いのか?PCの前で固まる。
小川さんが悩む私を見て、

「こんな感じで。」

 自席のPC画面を見せてくれた。彼女の日報だ。
詳細に、分刻みの業務日報。その日報作成だけで私なら丸一日掛かりそうだ。
しかし、それは私のその日の業務からすればまったく参考にならず、むしろ見ない方が良かったとさえ思ってしまう。
もうどう思われてもいいやーと、そのまま保存し、帰宅の準備をした。
そそくさとPCをシャットダウンする。
社内は、まだこれからが本番といった空気でもあり、こんな明るい時間から帰宅するのが悪いような気がしたのは、ホワイトボードを見てしまったから。

ー19:00~全体MTー

 恐らく、部署全体での会議だろう。
帰り支度をしつつ、周囲を見回すと、やはり皆若い。
同世代がいないのだ。
同じ立場の非正規がいないことだけではない、やっぱり疎外感を感じてしまう。

「お先に失礼します。」

 勇気を振り絞り、声を出した。
スルーされる覚悟があったものの、意外なことに周囲から、

「お疲れさまでした!」

 といくつもの声があり、驚く。
前方と斜め前の男性も、その日初めて視線が合った。
彼らも、挨拶をしてくれたのだった。

 一足早く退社するのはやはり気が引けたけれど、社外に出たらそれまでの緊張で生じなかった空腹が一気に襲って腹が鳴った。
職場から少し離れたところにある、とあるビルのテラス席に腰を掛ける。
この場所は、テイクアウトしたものを食べたりと自由に誰もが使えるらしい。
パラソルの下、持参して来たパンを水筒のお茶で流し込む。

少し生き返った気がした私に、まだ照り付ける午後の太陽が頑張れと背中を押した。




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