善意は重荷

紙袋 生活
スポンサーリンク

 他人からの善意ー、それを受けた時に抱く自分の感情に戸惑う。
私はすぐに、何か形にして返さなくてはーと焦燥感に駆られるのだ。
そしてそれは時に重荷になる。

いいのよー、気にしないでと言われても、気にしてしまうのが私の性格。
一方的に善意を受けたまま流すことなど出来ないのだ。



お裾分けが多いお隣さん

 ピンポンー

 ドアを開けると、針金さんが愛想の良い笑顔で立っていた。ふと、彼女が手に紙袋を下げているのが目に入る。
咄嗟に、あぁーまたかと嬉しい気持ちより先に出た困惑の感情。

「これね、この間息子が出張に行った時にたくさん買って来たの。現地でしか買えないらしくて。ネット販売もしてないみたいなの。良かったらお裾分け。」

 前回もいただきものがあり、まだそのお礼をしていなかったことを思い出すと、どんな顔をして受け取ったらよいのやら。
彼女の方は気にして無さそうだし、また私以外の知人にも配り歩いているようなので、いちいち誰に渡して誰にお返しをもらっていないーだなんて確認作業などしていないと思う。
それでも、貰いっぱなしは心苦しい。
我が家にも、お裾分け出来るくらいの頂き物があれば良いのだが、必要な時に限って何も無い。


友人が出来辛い理由

 この瓶詰たちは、合わせて幾らするのだろうか?
無造作に梱包されてはいるけれど、明らかに高価そうな感じ。
現地でしか買えないーというのなら、プレミア価格なのか?
同じくらいの価格でお返しを探さなくては・・
それに、前回の頂き物の分も合わせたら・・あぁ、気が重い。
 
 交際費ーという枠組みで、しかしあからさまに買ったものだとバレないよう、近所ではなく足を延ばして百貨店で購入しなくてはならない。
それが面倒なのだ。

 あげる方は、善意の塊。
そして、受け取った側が喜んでいると信じて疑わない。
まさか重荷に思っているだなんて、思いもよらない。
そして、そんな風に思う自分自身に自己嫌悪。
なんて嫌なヤツなんだろうと落ち込んでしまう。
だから、この地に越してもう十年以上、親しい友人が出来ないのだ。
いや、そもそもずっと前から、夫と結婚する前から私はこんな感じだ。
職場で親しくなった同僚から誕生日プレゼントを貰った時も、真っ先に浮かぶのは「お返し」をどうしようかということだった。

 私は、こうした種の贈り物を探すのが苦手だ。
雑貨店をぐるぐる回り、商品を手に取っては元の場所に戻し、レジへ行くけれどやっぱり戻り・・結局、当たり障りのない消え物ー食品やお茶や入浴剤等に落ち着く。
しかし、それらは自分が貰ったとしてもたいして嬉しくもなければ、無難なだけに驚きも無く面白味もない。
もし気に入られなかったらどうしよう、有難迷惑だったら・・趣味じゃない物を受け取り、相手が引き攣り笑いで感謝する妄想までしてしまう。
そして、渡した後のこと。
きっと、部屋の片隅に置かれたまま埃をかぶり、数年後の大掃除で見付けられ、誰から貰ったのかも思い出せないそれは、大量の不用品と共にゴミ袋に投げられる場面が浮かぶのだ。

 距離を詰めるのが上手い人は、あれこれ頭でっかちに考えずとも、本能的に嬉しい感情が溢れ、そして相手に曇りない感謝を伝えることが出来るのだと思う。



失礼のないようにすることが失礼だったりもする

 嫌らしい話だけれど、お返しをする際には貰ったものの値段を調べなくてはならない。
これは、物心ついた頃から実母に言いつけられた「常識」だ。

 今は、ネットで情報を得られるのでだいぶ楽になったけれど、昔はそれも難儀だった。
わざわざ店を調べ、その商品価格を調べに行くーなんてこともあったし、そうでなくとも、それと似たような商品を探しておよその価格を調べたり。
その行為こそが、失礼だったりするのではないかとモヤモヤしながらも、相手からの頂きものを安く見積もることも失礼にあたる。
そのどっちにしても失礼な行為の間で、私はいつも悩み疲れていた。

頂き物が、思ったより値段が高い場合、嬉しいような、しかしやはり困惑の感情が湧き上がる。
同等のお返しをしなくてはならないからだ。
むしろ、感謝料として少し上乗せーをしなくてはと勝手な負担を感じたりもした。
こうした気遣いを相手は望んではいないだろうと思いながらも、私はその行為をやめることが出来ないのだ。


 本当に気心知れた友人や家族間のやり取りなら、このような面倒な作業は発生しないのだろうか?
いや、私は従姉妹のN恵に対しても同じようにやって来た。
むしろ、実母や伯母が絡んでいるので、貰う以上のお返しー倍返しをし、更にその倍返しを貰い、倍々と収拾がつかなくなった時もある。
母も伯母も負けん気が強く、「借りを作りたくない」性格。
姉妹だからこそマウントを取り合う。
それは、私達子どもにまで影響を与えていた。

「姉さんだからって借りを作るのは嫌なの。自分の子どもにならいいけどね。」

 伯母さんは伯母さんで、病気をした時にお見舞いを贈ったら、お返しにと品物だけではなく金銭が入っていた。結局、お見舞い以上の金額が戻って来たことになる。
いったい何の為のお祝いなのかー、親戚間でもこの有様なのだ。





お金に換算出来ない思いやりすら重荷

 「美味しいもの食べて、元気を出してね。体調、大丈夫?」

 そんな一言ではっとする。
針金さんは、私を心配してくれているのだと。
そしてその心配する気持ちをこうした行動で示してくれたのだと。
手ぶらで様子見をすれば、私が気にすると思ったのだろう。
何かのついでー、あくまでもお裾分けがメインで、挨拶代わりに様子を聞くくらいなら、相手に負担を掛けないと踏んだのだろう。

 「娘の受験も終わって、やっと落ち着いたから大丈夫。どうもありがとう。」

 彼女はまだ何か言いたげな顔をしていたけれど、携帯が鳴ったことでその場を後にした。
勿論、鳴ったのは、彼女の携帯。

「じゃあ、またね。」

「ありがとう。」

 心配されている。
しかし、彼女はお隣さん。
それ以上でも以下でもない関係性なのは、この数年ではっきりと分かったこと。
いっとき、進展を望んだ時もあったけれど、もう期待することに疲れてしまった。
これくらいの距離感が丁度良いのだ。
なのでそこまで深い関係でもない、微妙な距離感の彼女に心配されること自体、重荷に感じてしまうのだ。



持ちつ持たれつのバランス

 例えばー、最近連絡を取っていない、宗教の友達。
彼女から心配されたり何か受け取っても、重荷にならない。
それは、私も彼女に与えているものがあるから。
彼女が熱心に推している宗教絡みの政党公約に耳を傾けるーだとか。
興味はまるでない。だが、彼女のことは友達として好きだから、彼女が喜ぶリアクションを取る。
それは、与えるという行為。他人を喜ばすという行為。
こちらから押し付けるものではなく、相手が分かりやすく欲しているそれを与えるということ。
そういう部分で、彼女に対して気を遣うことは昔からあまりなく、むしろ時にうざったいと思い薄い反応を示したりも出来たり。
私がこんな風に、自然に振舞える数少ない友達。
だが、彼女とももう何年も連絡を取っていない現実なのだけれど。

 持ちつ持たれつの関係ー。
その関係性を築くのは、難しい。
難しいけれど、そうでないと善意は有難迷惑に感じることさえある。
こんな性格の自分が一番面倒なのかもしれないが、私のように思う人間もこの世界に少なからずいるような気がしている。





タイトルとURLをコピーしました