沈黙が平気な人と苦手な人との境界線

パン 仕事
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 事務所の手伝いへ。
夫の運転する車に乗り、事務所到着。
手伝いの日は、なんだか夫と24時間一緒にいるような気がして息が詰まる。
それに、夫と2人きりだと自宅でも車の中でも沈黙が続くことがある。
今朝の夫、「本日のご機嫌バロメーター」は下がり気味だったので、面倒だなと思いながらも私なりに気を遣って話し掛けてみたが、機嫌が悪い時の夫は何をしても無駄である。


外面の良い夫

 事務所に到着すると、既に吉田さんは出勤していた。
犬塚さんは外回り。

「俺は11時に出るから。先生と飯食ってくるわ。」

 税理士事務所へ行かなくてはならないとのこと。
お弁当については先生と昼食も兼ねてとのことだったので用意して来なかった。

「ちゃんと領収書貰って来てよ。またどっかに落として来たりしないでね。」

「はいはい。分かりましたよ。そうそう、こないだ買って来た生ドーナツ、うまかったろ?」

「ちょっと話変えないで!まったくもう!それに私、ダイエット中なんですけど!」


 どうやら夫はちょいちょい領収書を紛失したりとだらしがないらしい。
それを指摘する吉田さんに少し嫉妬した。
なんだかそのやり取りが、夫婦の会話のように思えたからだ。
夫の目尻は下がり、さっきまでの車中の夫の横顔とはまるで別人。
いや、そもそも声の調子だって違う。
男の癖に、ワンオクターブ高い。
女で例えるのなら、猫なで声的な。
それに、彼女の為なら並んで生ドーナツを買うのかと思うと腹が立つ。
3人しかいない事務所で、夫と彼女の声だけが響く。
ここですらまた、私は孤立する。
寒々しい2人の会話に耳をそばだてながら、キーボードを叩く音に力をこめた。


夫の前で恥をかく

「電話、やってみます?次掛かって来たら、出てみて下さい。」

「え?次ですか・・自信ないです。見本、見せて貰ってもいいですか?」


 先日の吉田さんの流暢な電話応対を思い出すと、委縮してしまう。
まるで呼吸をするかのように、スラスラときちんとした大人の言葉で受け答えをする彼女。
それはそうだ。もういい大人なのだ。
それくらいのこと、働いているいない以前の常識なのかもしれない。
また、こちらから掛ける電話も完璧だった。
まず、声が良い。品があり柔らかい。私のようにぼそぼそとした暗く低い声ではない。
見本をお願いしておきながら、既に後悔していた。
自らハードルを上げてしまった

 夫の会社だから通用すること。
普通に雇われている身だったら、指示されたら失敗してもチャレンジしなくてはならない。
だが、無給で働いているのだ。
それに、彼女が出来ない仕事を代わりに期間限定で引き受けてあげるだけのこと。
こちらが必要以上にへりくだる必要などないのだ。
そう言い聞かせることで、自信を取り戻し緊張を解こうと思ったのだ。


ープルルー

 電話が鳴った。

「電話ですよ!お願いします!」

 吉田さんの声に押される形で受話器を持つ。
予め手元のメモに記した言葉、それを読む。
相手方と用件を聞き取ろうとするが、緊張のあまり頭に入らずパニックに陥る。
用件については、意味が分からず何度も聞き返す。見かねた吉田さんが、私にジェスチャーで「チェンジ」のサインを出す。

「少々お待ち下さい。」

 吉田さんに代わって貰う。そこからはスムーズで、私は顔を真っ赤にして夫からの視線に耐える。
受話器を置いた彼女は、夫に用件を伝えると一件落着ーとはいかず。

「おいおい、勘弁してくれよ。」

「まあ、初めてだし。最初は焦りますよね。」

 彼女にフォローされるようになるとは、屈辱的過ぎる。
夫からは、しばらく電話に出ないで欲しいと言われた。
時間になり、夫は出て行った。
事務所に私達は取り残された。


沈黙のプレッシャー

 カタカター
キーボードが鳴り響く。
互いの息遣いまで届く距離。
たまったシュレッダーやファイリングが終わり、例のコピー&ペーストも終えて何もやることが無くなってしまった。
向かい合わせに座る彼女に、何か話し掛けるべきかと迷い、口火を切った。

「お子さん、もう社会人ですか?」

「・・え?あー、はい。」

 視線をPC画面に向けたまま、愛想のない返事。
私の雑談力が無いのだろうけれど、このまま沈黙を続けるのは悪い気がしたので、もう一度声を掛ける。

「それにしても、お子さん一人で育てて仕事もされてて、尊敬でしかないです。」

「・・はぁ。」

「ツーリングもまだされてるんですよね?アクティブで格好良いですね!」

「・・ちょっとごめんなさい。今、取引先にメールしてるので。」


「!」

 

 いつもの悪い癖だ。
やってしまったー、そして穴があったら入りたい。
空気の読めないやばいヤツだと思われたに違いない。だから旦那にも愛想付かされるんだとー
一気に思考がネガティブに引きずり込まれる。
しばらくして、彼女は席を立ち外に出て行ってしまった。トイレだろうか?
とてもとても気まずい。



昼休憩

 しかし、なぜ私は彼女にこんなに気を遣わなければならないのかと時間差で腹が立って来た。
彼女は私の上司ではない。夫の部下だ。要するに、彼女からしたら社長夫人にあたる私なのに。
なぜ私の方がビクビクと彼女の言動を気にしなくてはならないの?
それでもこの場において、仕事の出来ない私の方が絶対的に立場が弱いのだ。
頭ではそれが分かっているのでどうしたって下手に出る。

 正午になり、鞄からパンを出す。
昨日、スーパーで20%OFFだった菓子パンと惣菜パンだ。

「お昼にしましょう。」

 PCから顔をあげた彼女が私に向かって声を掛けた。
彼女もごそごそと鞄からパンを出した。先日と同じ店のロゴが描かれた袋。
お洒落で高そうなハードパンやベーグルサンド。
彼女は自分の分だけサーバーから珈琲を作ると、夫の席についた。

 違和感。
先日は、私に珈琲を淹れてくれたのに。
あの時は夫や犬塚さんがいたから?それとも初日だから?
スマホを眺めながら、黙々とパンを齧っている。
何か、話し掛けた方がいいのか?
いや、でもスマホを見ているし、これは話し掛けないでくれというポーズなのか?
勇気を出して話し掛けても、今度は「昼休憩なのでごめんなさい」なんてぴしゃりと返されるかもしれない。
思考がぐるぐるし、なんだかパンも喉を通らないし味もしない。
静まり返った事務所の中、ただただ気まずい時間が過ぎて行く。
そして彼女は堂々とスマホを眺め続ける。
沈黙に耐えられる彼女の図太さに、やはり様々な疑惑が湧いて来た。
物腰は丁寧だけれど、やっぱり彼女は夫とー

 こうなれば、我慢比べ。
互いにどちらが沈黙を続けられるかーなんて、勝手にゲーム化させて凌ぐ。
そんな風にしつつも、やっぱり私はチキン野郎なのだ。
沈黙が怖くない人間の方が、どうしたって強者だ。
だって、他人の意識よりも自分の意識を大事にしているから。
相手の反応なんてハナから気にしない。
要するに、「自信」があるのだ。

「ちょっと、家の用事を思い出したので帰ります。」

 用事なんてないけれど、あのまま彼女と沈黙の中で一緒にいるのが耐えられず、PTAとかなんとか嘘をついて、そそくさと事務所を後にした。

 息が詰まる。もう行きたくない。
夫から着信の嵐。それを無視して帰りは憂さ晴らしにウィンドウショッピングをし、マックで珈琲のカフェタイム。
午後もあの調子で過ごすなんて、きつかった。
早く引き継ぎを終えて、さっさと実家へ戻って欲しい。
















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