引きこもり主婦のソロ活動

わたし
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 日々の慌ただしさに追われ、近所の桜も気付けばすっかり葉桜になってしまった。
この週末の天候で、花見も出来なくなるーそう思うと、居てもたってもいられず外に出る私がいた。

制服と桜

「ねえ、お花見がてら、制服着て桜と写真撮らない?」

 春休み終盤ー、特に予定がなさそうな日の昼下がり、子に声を掛けた。
制服が届き試着もし、いよいよ高校生なのだなーとしみじみしていたら思い出したのだ。
桜の木の下、制服姿の写真を撮っていないではないかと。

「えー。嫌だよ。面倒臭い。」

 相変わらずスマホに視線をやりながら子はそう返す。
それもそうか。年頃の娘。
友達と花見なら楽しいだろうけれど、辛気臭い母親と2人で花見なんて面倒だと思うのも無理はない。
これまで、子の節目ー入学を迎える度に真新しい制服と桜の写真は定番だった。
美しい桜の木の下で子の成長を祝う。
ささやかな幸せ。
淋しいけれど、仕方がない。
子はいなくても、子が晴れて高校入学をする年の桜を拝みたい。

私は一人、ポットに珈琲とファミリーパックのクッキーを一袋だけ鞄に入れて外に出た。

ソロ活を楽しむ

 強がりだって思われるかもしれないけれど、ソロ活という言葉がここ最近流行しているということは、私のようなボッチが世の中で前向きに取られるようになっている傾向にあると思う。

 ソロキャンプから始まり、ソロカフェ巡り、ソロカラオケ、ソロプラネタリウムやソロ水族館等・・
私は独身ではなく夫も娘もいるけれど、近い将来「ソロ活」を送っている自分がリアルに目に浮かぶ。

 今からその予行練習。
子がまだ小さいうちは、周囲の目が気になり堂々とソロ活なんて出来なかったけれど。
子が高校生になった今、ママ友やご近所の存在も大して気にならなくなったことで、そのハードルはぐっと下がりつつある。
以前から、ソロ活的なことはしてきたけれど、心の底から楽しめてはいなかった。
それはやはり、自分が周りからどう見られているかばかり気にしていたから。
無駄に自意識過剰な私。
寂しそう、詰まらなそう、哀れーだなんて思われるのではないかと、勝手に自分自身をがんじがらめに縛り付けていたのだ。

ソロ花見

 自転車を漕ぎ、花見スポットをはしごすることにした。
まずは、子が入学という節目を迎える度に写真撮影をしていた桜がある公園へ。
やはり、ここは撮影スポット。

 小さな背中に大きなランドセルー、まるでランドセルに子どもが背負われているような姿が何とも言えず可愛らしく、我が子も通ったはずの遥か昔の思い出に胸が熱くなる。

子はいないけれど、久しぶりに一眼レフを手に桜を撮った。
あの頃のまま、同じ場所に佇む大きな桜の木。
こうして昔も今も、多くの家族の歴史を見守り続けているのだなと、なんだか私自身も彼に見守られているような、暖かな気持ちになった。

 次に、隣町へ。
噴水もある大きな公園。
私が日中一人で図書館へ行く途中に寄ることも多かった、ソロ活原点の公園。
割と有名な公園でもあるので、花見客が多い。
家族や友達、また職場関係と思われるスーツ姿の集団。そして、ママ友集団とその子ども達。
眩しいくらいに楽しそうな集団を横目に、一人自転車を降りて散歩をする。
私と同じように、カメラ片手に一人歩きしている者も多く、勝手に親近感をおぼえる。
ベンチは空いておらず、芝生の上に一人座りぼーっと桜とそれを楽しむ連中を眺めた。
サワーでも買ってくれば良かったーと思ったけれど、珈琲で我慢。
ポットを開けると、ふんわり香ばしい豆の香りが漂って来た。
ふわっと春の風が、切りたての髪を揺らす。

ー心地良いなぁ。

素直に幸福を感じた。
人によっては、ささやかな日常。
記憶にも残らないだろう時間。
だが別に価値を求める必要などないのではないか。
ただただ楽しく幸せと思える「主観」に素直に従っていても良いのではないか。
散りゆく桜の花びらがふわっと舞うのを見ていると、そんな風に思えるのだ。

桜を贈りたいと思える人

 美しい桜の写真を携帯でも何枚か撮り、ふと思う。
それを共有したい人が私には何人いるかと。
真っ先に浮かんだのが、我が子だ。
丁度、子からラインが来た。

ーママ、いまどこ?帰りにドーナツ買って来て。

 そんな勝手なラインだったのだけれど、それには返さずとびきりの桜の写真を一枚送信した。
すぐに既読になり、少しして子から返信が来た。

ーこれって、小学校の入学式に撮ったとこだよね?懐かしい!

 もう、これだけで十分。
幸せな記憶の共有。ソロであろうと、心にこうして共有出来る相手がいるということ。
花見の帰り、店で子が好きそうなドーナツを5つも買った。








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