妻としてのプライドを保つ秘訣

キーボードとネイル 仕事
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 疲れている。
今日は、夫と子を送り出し、二度寝してしまった。
昨日は夫の事務所へ行く初日だったのだ。
精神的に、とても疲れた。脳味噌も使ったし、神経も使った。
これ以上ないくらいに、私は自分を少しでも良く見せようと必死だった。
爪先立ちで一日過ごしていた、そんな感じに。

 あくまでも、期間限定のお手伝い。
夫からはそう言われていた。
恐らくそれは、吉田さんに戻れる場所の確保を約束しているからだろう。
そうでなければ、新しいパートでも募集を掛けるところ。
私の不満を見透かしたように、夫は言う。

「あなたが出来ればそれが一番なんだけどね。」

最初の挨拶

 事務所に入り、最初の挨拶については何度も何度も心の中で練習していた。
一番は、舐められたくないーという気持ち。
声を震わせたりどもったりなんてしないよう、滑らかに台詞が出るよう、何度も何度も。
以前、顔は合わせていないけれど吉田さんがコロナ接触者になってしまい手伝った時。
必死こいて仕上げたデータを「使い物にならない」と鼻で笑われたー夫経由の話だけれどー、のをいまだ根に持っている。
夫の妻は、私。
それにこの会社だって彼女の会社ではない。彼女はただ雇われているだけ。




「いつも主人がお世話になっております。ご無沙汰しています。」

「お久しぶりです、お元気でしたか?この度はお忙しいのにすみません。」

 


 久しぶりに会う彼女だが、だいぶ老けた印象を持った。
以前会った時に記憶していた彼女のまま私の中では時が止まっていたのだろう。
それでも、メイクもヘアスタイルも服装も小綺麗だったし、私と比較すれば十分魅力的な吉田さん。
小柄でふんわりとした可愛らしい雰囲気美人なのだ。
続いて、その背後にいた白髪の男性が私に近付き、会釈をしながら、


「いつもお世話になっています。それに、豪華なお弁当、有難うございます。」


 普段は事務所にいることが少ないという犬塚さんだ。
この日は私が手伝いに来るとのことで、わざわざ事務所に寄ってくれたのだと言う。
夫は私の隣でいつもより柔らかい空気感。


「じゃあ、あなたはちあきさんから色々教わって。俺達は昼過ぎからちょっと出ないとならないから。」


 夫が、他の女の名前を呼ぶ。胸の奥がチクリと痛む。もう何年も呼ばれていない私の名前がその存在を無視されたようで、惨めで悔しい。
動揺を隠しつつ、引き攣り笑顔で頷くしかなかったが仕方がない。

 そんな私の不快感をよそに、彼女からの引継ぎが始まった。
彼女の使っていたデスクに私が座り、その隣に彼女が予備のPCチェアを持って来て腰を掛けた。
彼女が傍に来ると、ふんわりと漂う香り。
帰宅した夫のスーツからも香る、既に我が家に浸食している香りだ。



丁寧で親切な引継ぎ

 夫と犬塚さんが、煙草を吸いに外に出た。
事務所内では、電波時計の針の音と私達の息遣いだけが聞こえる。


「じゃあ、まずはこのシートの中にある数字をこっちのシートにコピーして貼り付けして貰えますか?」

「あぁ、はい。」


 いったいこれは何に使うのか?の説明も無い。
ただ、取引先らしい社名がずらっと並び、単価や税率などが記載されている。
請求書を作成する為のツールだろうか。


「あ、コピーの仕方とか、分かります?」


 それくらい、分かる。MOSの勉強だってしたのだ。馬鹿にしないで欲しい。
コピーしてペーストー、ショートカットキーでサクサク進む。
しかしその単純作業だけの為に、私は駆り出されたのか?
彼女は、自席を私に譲り、夫の席のPCで何やら難しい顔をしてカタカタキーボードを叩いていた。


「終わりました。」

「あ?もうですか?早いですね。じゃあ・・」



 続いて、取引先から送られて来たFAXを返信する作業。
FAXなんて、もう十年以上使っていないので、機械の前でおたおたしてしまう。
用紙の向きは?縦に入れる?横に入れる?
悔しいけれど、白紙のFAXを送信する訳にいかず、彼女に聞く。
ちらっと彼女のPC画面が見えた。その細かな数字の並ぶ画面に眩暈を起こしそうになる。

「すみません、FAXって表と裏、どちらにセットですか?」

「あぁ、すみません。えっと、表を上にして下さい。」


 呆れることなく説明してくれた。そして私が無事に送信するまでの間、横に立って見ていてくれた。
夫のことが無ければ、とても親切で優しく穏やかな人だ。
これまでのパートの先輩らのように、大きなため息やうんざりした表情や意地悪もない。
 その他の業務も、手取り足取り教えてくれた。
時折目に入る、彼女のネイル。
可愛らしい雰囲気とは対照的な、黒のネイル。
そのネイルに彼女の人間性が表れている、そんな気がした。

 郵便物の開封からチェックと破棄、そしてファイリング。
PDFの作成方法も、まるでPC教室の先生のように丁寧に教えてくれた。
私は必死に彼女の説明を聞き、メモを取った。
彼女に対しては、色々と思うところはあるけれど。今は引継ぎに集中だ。



お昼休憩

「あ、もうお昼ですね。休憩しましょう。」


 私は、朝5時起きで作ったお弁当を大きなトートバッグから出した。
夫と私、それに犬塚さんと彼女の分だ。夫に初日だし皆の分を作るように言われたのだ。
正直、初仕事に加えてそれもやるのかとうんざりしたが、自営業の妻なのだから仕方がない。
普段、夫の会社に貢献してくれている社員達へのお礼を振舞うのだと思えば、それも仕事のうちの一つ。とはいっても、犬塚さんは共同経営者だけれど。


「あー、腹へった。」

「奥さん、いつもありがとうございます!独身だと外食ばかりで。こういう家庭料理に飢えてるんでね。」


 犬塚さんは、バツイチだ。現在は悠々自適の独身者。
自由気ままに過ごしている。
だからだろうー、そうじゃなければこのご時世、安定している仕事を捨てて自営の道になんて進まないだろう。


「あ、私は持って来てるんで。大丈夫です。」


 吉田さんの分も作って来たのに、彼女は自分の持参しているパンを出した。
私だったらー、そこは空気を読んで持参のパンは出さずにお弁当を頂くのに。


「じゃあ、ちあきさんの分は私がいただこう。」


 犬塚さんが食べてくれることになったので無駄にならずに済んだ。
それからは、だいぶ昔に我が家で行われたホームパーティーのような流れになった。
仕事の話をされても、今はまだ何も分からない私。彼らについていけない。
しかし、彼らの趣味としているツーリング話にはもっとついていけない。


「お嬢さん、もう高校生でしたっけ。」


 そんな私の居場所の無さに気付いた吉田さんが、私に尋ねたのは子どものこと。
いつだってそう。
私自身に語れるものもなければ、他人から興味を持たれることもない。
当たり障りのない「子どもの話」しか沈黙を破る材料が無いのだ。


「えぇ。楽しくやってます。」

 

 適当に会話を合わせながら、箸を運ぶ。
ただ、会話はどことなくぎこちなかった。私は話すネタが浮かばないしー、今思えば、彼女の息子さんのことでも聞けば良かったのだけれど。
口の中にから揚げを詰め込み過ぎてむせた。
味も良く分からない。
正直、自宅で一人で食べていた方が遥かに美味しいと思える。
 
 食後、彼女がサーバーから人数分の珈琲を淹れてくれた。
私だけ紙カップだったので、次回はマグカップを持って来よう。



誰にでも出来る簡単な仕事

 午後は、夫と犬塚さんは顧客のところで打ち合わせにより外出。
私と吉田さんだけが事務所に残された。


「じゃあ、これと同じように年度だけ変えて作って下さい。」


 とある昨年度のファイルを、今年度用に作成することになった。
これもまた、細かな数値が入っており、何となく内容は分かるような分からないような。
だが、吉田さんはそのファイルがどういうものでどのように使用するのかの説明は省くのだ。
恐らく、私にやらせる作業は意味が分かっていなくても出来るものばかり。
引継ぎと聞いて、もっと難しいことをさせられるのかと思ったのに。
どれもこれも、スキルの要らない単純作業ばかりなのだった。


「電話対応も、してみますか?」

「え?電話ですか?」


 突如、緊張感が走る。
そういえば、午前の電話は彼女が殆ど取っていた。
私も取るべきなのか迷ったのだが、迷うより早く彼女が受話器に手を伸ばす方が早かったので、見て見ぬ振りで遣り過ごしたのだ。


「また・・今度にしましょうか。」


 私の動揺に気付いたのか、にっこり笑って彼女は言った。
そして情けないことに、私は彼女の言葉に甘えてしまった。



「出来れば、今度でお願いします。今日もちょっと色々覚えることが多くて大変で。」


 一つ一つの作業は難しくないのだけれど、既に頭が混乱し始めていたのは事実。

作業を覚えても、次の作業をしたら前の作業の記憶が薄れる。
その為にノートにメモをしているのだけれど、そのメモを見てもあやふやな部分が時間の経過と共に色濃くなっていくのだ。


「大丈夫ですよ。誰にでも出来る簡単な仕事ですから。」


 笑みを崩すことなく彼女が放った言葉に、冷水をぶっかけられたような屈辱感がわいた。
結局引継ぎといっても、難しい経理の仕事やその他書類作成や顧客対応のメールだったりは彼女がリモートでするのだ。
ただ、事務所にいなくては出来ない「作業」を彼女が留守の間だけでも私に引き継いで欲しいーという上っ面の引継ぎだということに気付いてしまった。

 しかし、今は仕事と感情を引き離すことにしたい。
彼女が完璧な引継ぎをすればする程、私はそれに応えなければならない。
いや、彼女が想像している以上の成果を上げたい。
そして、涼しい顔で淡々とこなすのだ。
それが今の私の中にある小さなプライドでもあり、妻として守るべき立ち位置なのだ。



 

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