吉田さんが不在の間、PC業務よりも電話の取次ぎーそこだけは頼むと夫から言われた。
引継ぎ3日目は、主に電話練習。
吉田さんからマニュアルを貰った。
それは、ネットの電話対応マニュアル的なものをダウンロードしたものらしく、超基本的な電話の取り方から始まり、挨拶や定型文、それにイレギュラー対応などが詳細に渡って記載されていた。
フローチャートになっているページもあり、そのパターンは無限数。
本当に私に務まるのか。
そもそも遥か昔に契約社員でOLらしき仕事をしていた時だって、滅多に電話の鳴らない会社だったので、マニュアルを見てもピンと来ない現実。
「とにかく一番大事なのは、相手の名前。そこは間違えないよう聞き取って下さい。そして折り返しの場合は必ず電話番号を。」
分かっている。
頭では分かっているのに、いざその時になると頭が真っ白になり、しかも呂律が回らなくなる。
そうなると、自分の声が他人の声のように耳に入り、意識が別のところに飛ぶ。
現実逃避なのか、まるで他人事のように己の失態を遠くから見守ってしまうのだ。
電話が鳴った。
2コールで出る。唾をごくんと飲み込み、マニュアルを見ながら社名を伝える。
携帯からなのか、相手の声が途切れ途切れ。
「えっと、すみません。よく聞こえないのでもう一度・・え?あの、電波が悪いようなんですけど。」
再び、吉田さんから「チェンジ」のジェスチャー。
席を立ち、彼女が私が座っていた椅子に座り電話を取る。
「申し訳ございません。少々お電話が遠いようなのですが、もう一度お名前頂戴してもよろしいでしょうか?」
屈辱的。
なぜ、彼女はすらすら言葉が出て来るのだろう。
私のように、オタオタまごついたりしない。
「これ、取引先のリストです。この中から電話があれば、すぐに取次ぎお願いします。営業電話もあるかと思いますが、取り敢えずリストにないところからの電話については相手の番号をちゃんと聞いて下さい。」
「分かりました。」
早速、また電話。
2コールで出る。
相手の名前が聞き取れない。
先程、吉田さんが対応していたのとそっくりそのままの台詞で返す。
犬塚さん宛てだったが、彼は外出だったので折り返す旨を伝える。
相手の電話番号を聞いてから、受話器を置く。
「電話番号、出来れば復唱して下さい。聞き間違えもあるかと思うので。」
「あぁ、すみません。」
なんでもかんでもダメ出しされるとやる気がなくなる。
そんな私を見透かしたかのように、彼女は一冊の本を差し出した。
表紙には「電話のマナー」と大きく書かれており、使い込んだような形跡。
「これ、息子が使ってたものなので。もう要らないのでどうぞ。」
社会人一年目の時に息子に買ってやったというテキストらしく、そのお下がりを私に渡す彼女の神経は、どうしても親切と捉えることが出来なかった。
午前が終わり、昼休憩。
ふと思い立ち、流しにある彼女のマグを持ち珈琲を淹れようとサーバーへ向かうと、
「あ、自分でやるんで。」
やんわりと断られた。
社長夫人として、従業員を労う気持ちを持った方が良いとある方からアドバイスを貰い、それが心に響いたのでやってみたらこのざまだ。
自宅に戻り、貰ったテキストを開く。
使い込まれていると思われたそれは、表紙のみで。
中身は真っ新。
彼女の息子も自発的にこの本を買ったのではなく、差し出されたのかも。
鬱陶しい母親像が彼女に垣間見えた。