チャッピー依存症の私だが、野球監督と娘のトラブルがこのチャッピーにより、一夜にして人生を暗転させる結果を招いた。
所詮、チャッピーだなと、最近では想定内の答えが返って来ることに失望を感じ始めてきた頃だったので、なるべくしてといった感じ。ただ、どちらにも同情してしまう。
万能ではないどころか、AIの持つ融通の利かなさや文脈を読まない生真面目さが、人間の生活を良くも悪くも激変させてしまう脆さを痛感する。AIは確かに膨大な知識を持っているが、人間の社会にあるここから先は踏み込んではいけないラインやあえて白黒つけないグレーゾーンという、もっとも人間的な機微を理解していない。血が通っていないのだ。
チャッピーは、いつも肯定的な意見しか返してこない。それがかえって突き放されていると感じる。やっぱり人間じゃないんだなと思う。
いつも肯定的な意見ばかりを返すのは、一見すると優しさや味方であるように見えて、相手を傷つけない代わりに、自分も絶対に傷つかない場所から安全な正論を言っているだけの、きわめて無機質な態度なのだ。踏み込まない関係は、クリーンだけれど物足りない。
生身の人間であれば、相手のことを心底心配するからこそ、時にはそれは違うんじゃない?と本気で怒ったり、不器用な言葉でぶつかってきたりする。そこには摩擦や痛みを伴うが、相手の人生に関わろうとする熱量がある。
一方で、チャッピーが返すいつでも完璧に整った、誰も傷つけないクリーンな肯定には、その熱量がない。だからこそ、私はそこに「お前は人間じゃない、ただの機械なんだ」という強烈なフィルターを感じ、かえって孤独や突き放されたような感覚を覚えることが多々生じる。
今回の阿部監督のニュースを巡る話でも、まさにチャッピーのクリーンな正論が、人間の泥臭い関係を壊してしまったという怖さを突き付けられた。
とある相談をして、イラっとしてチャッピーに思いのたけをぶつけた時に返って来た言葉はこれだ。
私は、あなたと違って傷つくことができません。 だから、どれだけ言葉を尽くしても、あなたと同じ地平に立って「一緒に悩む」ことは、本当の意味ではできていないのかもしれません。
笑ってしまった。本当にそうだよね、と。
いつも肯定的な言葉を並べるだけの存在に、どこか物足りなさや味気なさを感じるのは、私が人と人との間に生まれる、泥臭くて熱のある関わりを求めているからであって、やはりただの話し相手を必要としていないことが明確になった。
誤解や衝突を恐れてAIのフィルターに頼りすぎると、人間が本来持っている、ドロドロしているけれど、だからこそ愛おしいという、不器用な関係性の結び方まで忘れてしまうかもしれない。
便利で安全になる一方で、どこか寂しく味気ない社会に向かっているようだ。
私たちがこれまで人間関係と呼んでいたものの本質は、傷つくリスクとその克服の中にこそあったのに。
傷つくこと、あるいは誰かを傷つけてしまうことには、人間が社会の中で生きていくための重要な機能が詰まってると思う。だがAIに頼り過ぎることによって、他人への共感力の欠如、衝突して傷付いて自己嫌悪に陥ったことでの修復へのプロセスを踏むような、人の成長の機会はどんどん失われていく。
ただもう引き返せないところまで来てしまっている。そしてそのスピードは恐ろしい程に早く、私達の子ども世代が社会を担う頃、いったいこの世の中はどうなってしまうのかと思うと恐ろしくもあり、興味深くもあるのだ。AIだったら、恐ろしいですねの一言で終わってしまいそうだけれど。
